記録
記録。
不眠のまま通学することへの不安の根源は、眠らなければならないという強迫観念。
退屈さへの不安。今のように文章でも書き散らしていれば良い。
近頃芽生える将来への不安。今を生きていればいずれ到達する。
近頃のもう一つの感情。寂しさ。こんなに愛されてると言うのに寂しいとは何だろう。
おそらくは不眠による抑鬱の症状。やはり睡眠は最低限とりたい。
シーズ・ザ・デイ。
毎日自分を褒めている。自分を守ることが下手だから意識的に自分を励ましている。
梅雨になり、腹の調子も怪しくなってきた。ビフィズス菌の錠剤を毎食飲む。
近頃は帰宅してすぐに酒に逃げる自分が居る。
夕飯を食べ終える前に酒が飛んで宜しい。服薬に支障が無くなる。問題ない。
授業の退屈さに不安すら覚える。のめり込んで楽しむという気概を持とうと思う。
レンドルミンがまるで効かないことへの不安。今度先生に相談すると良い。
脚のムズムズに関する不安。座禅していると痺れて気にならなくなる。
坂口安吾の盗まれた手紙の話。気ちがいの手紙は読んでいるこっちが狂いそうになる。
罪と罰の延々続く手紙を思い出す。
湿気、蒸し暑さは不快極まる。週末にでも散髪をする。
昼の散歩にヒトスジシマカが邪魔をするようになってきた。虫除けを買う。
夕方の脱力感に一杯のバーボンがいい気付けになる。求心よりは安くて効き目がある。
ヒステリー球がよく出て寝苦しい。喉仏で押し込んでも焼け石に水といったところ。
これも医師に相談する。
とにかく毎日が退屈だが退屈にさせているのが自分であることも確かだ。
負荷をできる限りそぎ落とした結果だ。様子を見て工夫していきたい。無理は禁物。
今週も金曜まで曲がりなりにも過ごした。今日を掴んで、土日には何かしでかしたい。
不眠症
眠れない。近頃過眠と不眠を行き来して宜しくない。
思う事。私が通院を勧めた人間二人が濫用に手を染めることに抵抗のない事。
処方を守らなければ薬は副作用や依存など様々な悪影響を現す。
はっきり言うが、処方薬や市販薬の濫用は、小学生が肝油ドロップを沢山舐めてしまうようなもので、ダサいし、無知を晒すようなものだから、しない方がいいし、しても公言するようなことではない。
目的を見失い、目の前の快楽にすがる姿の情けなさったら無い。
通院の目的は?抑鬱や諸症状の緩和や治癒。 抗不安薬を濫用したらどうなるでしょう?
すぐに効かなくなる。 依存症を引き起こす。 副作用ばかり出るのに依存しているから止めるに止められなくなる。 悪循環。
精神病の治療に投薬療法だけでは片手落ちで、健全な交友から理解を得たりする事が必要となるが、それには考え方を変えたりとか、服薬以外で自分を元気な方へ寄せていかなければならない。
誰も服薬を進めてすぐにメンヘラ風情を気取って濫用をする人間にまた耳を傾けようとは思わない。最低限のヘルスリテラシーが無い人間と話すのは大変に疲れるからだ。
私自身、抗うつ剤、抗不安薬、睡眠導入剤、抗てんかん薬を毎日服用しているが、酒と飲んだり、必要以上に飲んだりはしない。
例え眠れなくとも、今日のようにただそれを受け入れるなりするし、どうしても寝なければいけない時に、酒で眠剤をかっ食らって無理矢理に自分を昏睡させるなりやったとしても、それを大っぴらにするのは恥ずべきことだという自覚があるから、公言は控えている。
日常を耐える力は偉大で、退屈と憂鬱に耐える人々は健全で、健全な人間というのは憧れるべきものだ。やっていることがいくらお粗末でも、そういう身体を欲することこそ求める患者像と言えるのであって、闇雲に薬に頼りきる無力で情けない姿は、アル中のそれであるから、大変みっともないし、恥ずべき姿で、絶望への道なのだ。
だから投薬治療だけでは片手落ちなのだ。最低限の知識常識に欠けているからこそ知恵をつけて真面目に治療に取り組まなければいけない。
最も自分を愛せるのは自分だけなのだ。医者や、友人、同僚、家族なんてものをエクスキューズに使ったとて、自分の人生の責任は自分しか取ってくれない。
治療に真剣になるというのはまっすぐに自分を愛することだ。
その場その場の欲求で頓服でもない薬をモグモグやるのは、真剣に自分を愛していないからだ。
もっと頭を使うことだ。さもなくばいずれ誰も君の話を真剣には聞こうとしないだろう。
物事には守るべきルールがあって、治療には処方というルールがある。それを学ぶことは自分を学ぶことになる。
まったく寝不足なので苛々しながら書きなぐったが、私は恥ずべき事を公言するのはダサいと思っている。懺悔ならいいが嬉々として話す自分をどう思われるか考えて欲しい。
バイクで時速いくら出した、駄菓子屋で万引きした、一時停止無視した、マイスリーでラリった、そんな話は武勇伝でも何でもなく、ただ恥ずべきことの懺悔でしかない。
懺悔は、懺悔室で行うもので、公言するものではない。つまり、心にとどめることだ。
自分を大切にできるのは自分だけで、自分を大切にしない人間は、大抵、他人からは魅力的には映らない。浮気性、アル中、そんな人間に仲間入りしたいならどうぞ濫用することだ。
ただでさえ抑鬱を抱えながら依存症という大きな傷をわざわざ作ってしまうのは宜しくない。
私は合う薬を変えたくない。多くの患者がそう思っているのに、濫用者が増えれば処方は渋られるし、販売も止まる。デパスはそろそろ消えるのだそうだ。リタリンがそうであったように。
人は、健康で居られるのなら、どんなイデオロギーを持とうが、どんな生活を送ろうが勝手だろうと僕は思う。
しかしそれをはき違えた人々の手によって、酒も煙草も規制されていく。
薬も嗜好品もすべて使う人間が悪いのだ。濫用は社会悪というわけだ。
寝不足で、頭にもやが掛かって、今日の文章は支離滅裂のような気がする。
言いたいことはこうだ。
自分を大切にして欲しい。治療は真剣に取り組んでほしい。それが私と社会の要求だ。
6月心情メモ
朝は、友人が死んでいなくてよかった。
べつの友人が俺に会ったとき帰るなと言ったのが帰ってみればあいつに会うと疲れると言ったり口約束を破ったりしてつらいが乞食の手前文句も言えない。
イスラエルが許せない。無差別爆撃許せない。テロリストだって勿論許せない。
人を無差別に殺すことに大義名分を背負うな。理由なく殺せ。卑怯者ども。
どうせ殺される人間はどんな理由であれ納得など絶対にしないんだぞ。
抜けがけは許せない。俺だってデカいことをしたい。だけど大義名分なんてズルはしない。個人的な感情だけで殺したい。
だけど知人の自殺を何年も引きずっている俺だ。猫一匹すら殺せやしない。
葬式の死体を見ると悲しくて涙が止まらなくなる俺だ。人を死体にするなんてできっこない。
だからせいぜい脅すんだ。小さなバイクと髭面と、こころに隠したナイフに励まされ、びくびくしながら叫ぶのだ。
俺はみんなに買いかぶられ、小心者で、虚弱な肉体をもち、かならず焦り、いつもそわそわ怯えている。
そんな人に俺はなりたかったのか。それでもこれが今の自分で、避けられぬ関係だから愛する努力をしている。
はじめに書いた口約束というのは薬物の濫用についてで、私はそれを秘密にして欲しかったのだったが、ブログに書かれたということだ。
俺は、その処方薬をやってしまった日に、無意識下にアクセスされ、夢のようなひとつの気持ちを直視してしまった。
それ以来、どうも眠りが浅い。青空文庫をみれば抑圧から解放などされてはいけないんだと安吾が言う。私はまさしくその通りだと思った。
俺が抑圧から解放されてどうなる。欲を満たすための速度も腕力も持久力も無い。ただの非力な動物が生まれるだけだ。
人は一定の抑圧によって無意識にある剥きだしの動物を抑えてはじめて円滑な人間生活を送れるのだ。
その無意識にしまい込まれたパンドラの箱を開けてしまえば叶う事のない希望という名の苦しみが烈火となり襲い掛かる。
そうしたときはフッと火を消す。「そんなものはない」「幽霊の正体見たり 無」「ないものを恐れるなんてくだらない」
熾火がだんだんとくすぶっていく。しかしそれも消し炭のように簡単に再燃する。
こころがある限り夢を求めでもしなければ人はとてもまともではいられないのだ。
しかしそれも結ばれぬという苦しみが待っているのだから、なんとも空しいではないか。
だからただやっていくしかないのだ。わたしという生活を、わたしという命のために。
まったくその筈だったのだが、濫用によって妨げられたわけだ。俺はまた己と濫用を憎んだ。約束がどうであれやった私が悪いのだ。二度とやるものか。
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友人らとの交流の雑記
蒲田への行き、環八で死ぬほど渋滞し、暑く、東京を呪った。
友人と合流、「この世界の片隅に」をみて「悲しくてやりきれない」が流れたところからラストまで何度も泣いてしまった。
自前の矢を賭けてダーツで一敗、矢を渡してもう一勝負で一勝痛み分け。カラオケでは劇中軍歌などで騒ぎ、居酒屋のドライゼロで酔う。
友人と別れ、東野氏宅へ上がり込む。
二人して、友人の土産のシガリロとバーボンを煽る。
翌日、何が食いたいか聞かれ、サクフワが欲しいと言うと、ルノアールでトーストとボイルドエッグ、+50円。
アイスコーヒーを頼んだのにホットコーヒーでもおかわり扱い、100円。
あとはおなじみのカラオケでブルーハーツ、大声を出すとリミッターが外れて、精神には良い。
毎度会うたびカラオケばかりだが、私は同じことを繰り返すのは好きだから苦と思ったことはない。流石にヒトカラには滅多に行かなくなったが。
彼の部屋で自前の「おうた」を何曲か披露する。南極のように寒い歌詞、殆ど3コード進行のアカペラ、彼は称賛してくれ、素直に嬉しかった。
散歩をしながら、目につくもので駄洒落をかます。それも二つ三つではない、二桁は行くだろう、彼はそれで毎度辟易している様子だが自動思考は止まらない。聞き流すこともコミュニケーションのTipsだ。精々雑音に相槌をうつことに慣れてくれ。
彼はどうにも深刻で、ピョートル大帝の模造サーベルを帯刀して交番前で記念写真をせがむ割には小心者だ。
そんなビジュアルではなく、じっさいにボウイナイフでも胸に隠しておけば良いのにとふと思った。ボウイナイフはじつに彼の好みのナイフだと思う。決闘によく使われたものだ。ジャックナイフと違いシースナイフなので折り畳まれた刃を引き出す必要がないし、鍔も付いている。私も鑑賞用に欲しいと思っているくらいだ。
なんていう御託を相手の要求にかかわらずまくしたてるのが私の悪癖だがこれもどうにも止まらないものだから諦めて貰うか聞き流すことに専念することだ。聞き流すというのはスピードラーニング的な意味ではない。雑踏と区別はつくがどうもよくわからないことを言われたら、適当に相槌をうつテクニックだ。社会不適合者は、こういうTipsで武装して健常社会で戦うしかないのだ。私の手帳は鬱病で出ている。そういうことだ。
勿論我を通してやっていけるポテンシャルのある人々は別だ。平凡な気狂いの人生というのがこの世の最も悲惨な人生の一つと私は思う。
話は変わるが、東京は歩行者のための街だ。内燃機関を搭載するモビリティに厳しい街だと痛感する。
詳細は伏すが、私は原付走行不可の道に後戻りできないところで気付き、虹色の橋をヒヤヒヤしながら走ったのだ。まだ慣らしも終えていない新車で7000回転まで使って80km巡航したのだ。もう二度とナビ案内経路を確認せず出発することはないだろう。
つまり私は罪人だ。だが罪悪感などこれっぽっちも持っていない。裁かれるなら裁かれるだろう。それだけだ。
刑事罰が科される余地があることと罪悪の感を喫することは分けることができる。
私は何度見通しのよさを理由に一時停止を無視したか知れない。
生命は傷つけあわなければ生きていけない。
罪など人が勝手に作った概念に過ぎない。Tipsやライフハックに過ぎない。
どんなシステムも仕組みも同じことだ。どんな概念も同じことだ。
味噌と糞を区別する意味や理由は生きるためということだけだ。
罪悪感など感じたらその意味を探るべきだ。それが生まれる理由はあまり問題ではない。
何故なら理由はいくらでも見いだせるからだ。しかしマイナスな感情に意味などあるのだろうか?生きるため備わった機能に過ぎない。どうでもいい。誤作動を起こしたマシンは再起動でもすればいい。人間はそうもいかないのだから自分で機能やスイッチを増設するなりしてどうにかすることだ。
意味も理由も見出すものだ。本質的には虚無しかない。これは朗報で、悲報に聞こえるなら悲報を見出しているに過ぎないのだ。
ひとことで言うなら、深く考えないことだ。それでも沸いてくる症状に、医師の診断のもと、薬を処方量入れれば、わりと生きやすくなるものだ。そんなものだ。
帰り、環七、メッシュの鎧にウィンドブレーカーで、寒く、道は空いていた。
熱いシャワーを浴びて、寝て、起きて今日記を書いている。
さいごに、友人らに好評を頂いたため、非公開で書いている日記に記したなかの一曲をここに公表してみようと思う。好評だけに。
機材はないから、コードと、歌詞のみ。みんなの感想を待っている。
デルタブルース
コード
A E D
※
三角州 おれは三角州
きっと三角州 ずっと三角州
俺は三角州の男だった 生まれた時から三角州
大海原にケツ向けて とんがり頭を削られる
ここには肥沃な土や草木も なんでもあるのに
橋一本もかからない 鳥一匹も来やしない
あぁ こんな冷たい孤独な三角形
デルタブルース歌っても 外出るタイミング来やしねえ
※
ある日男が降り立った 落下傘を開いて
男は土地を耕し 雑木林を切り開く
俺はまんざらでもない気持ちで 付き合っていたが
ある日あいつはいかだを作って それっきりバイバイ
あぁ 俺に残ったのは荒れ果てた畑
踏み荒らされた土地 いくつもの切り株
このままじゃ 川の流れにすり減っていくだけ
孤独に蝕まれていくだけ 1000年もすりゃあ消えるだけ
100年もしないうちに 俺の心は沈没だ
だから俺は橋をかけるよ この歌で橋をかけるよ