適応について。

 

前回の記事の続きは、記憶が飛んだので書けません。

 

発達(発達障害者)が適応する失敗例

・過剰に適応してストレスがかかり、自己モニタリングできないのでそれに気づかずある日トラブルが起こる。

1、ベッドから動けなくなる

2、適応が不完全になり人を傷つけたり場にそぐわない言動を起こす

 

こうならないためには普段からストレスを発散することが大切ですが、よく言われる運動や芸術鑑賞やレクリエーションなど気晴らし以外でも普段のふるまいでストレスを貯めづらくすることもできるのではないかと最近思い、実践しています。

 過剰に適応すると健常な方でも環境によっては病気になります。

思い返せば、私は普段健常者のロールプレイをやっていたり、逆に寡黙になり交流を絶ったりと、極端な適応をしていたように思います。

完全に適応できている筈もありませんから、効率が悪いんですよね。

なので本来の思考回路上に健常エミュレータを動かす従来の方法から、本来の思考の一部に適宜健常フィルターをかけるようなイメージに変わってきています。

 

自分らしく、というと陳腐ですが、無理なくやっていくにはこちらのほうが良いです。

何故なら、頭いっぱいに健常者の思考をエミュレートすると、一息入れるべきときに自分に戻れなくなるのです。エミュが常駐して落とせなくなります。これは想像以上につらくて、元の自分と仮想の自分が混じると普段話すことも矛盾が現れますし、一人で街を歩くときにも周りに知人が居るようにふるまったり、そんな心地で居るようなものになりますから、どんどん疲弊していきます。もうぐちゃぐちゃです。

 

そこで社会的場面の都度健常のコードに沿って言動をやる方法に変えてきています。これは別に今日から変えよう!とやったんじゃなく、ふと顧みるとそうなってきているということです。

 

一人のときはいつも通り、家族連れの多い公園の芝生だろうが、日当たりが良かったら寝てたり、食事のタイミングや量も他人に合わせません。たとえ行政などからの要請にも体調によっては対応を先送りしますし、とにかく自分にとってのストレスを避けながら最低限の健康とリズムの保持に努めて療養しています。

 

人と会話したり、会ったりするときにも、数年前より余計なことを気にしないようになってきました。まず見た目は清潔感がなくても実際に清潔であればよしとします。つまりシャワーを浴びて洗濯した着衣を身に着ける程度です。行動も健常コードを外さないレベルに制限されます。そして会話、これは人間関係というものの底知れなさ、つかみどころのなさが最大の壁なので、そもそもそういうことを気にしない方がいいと思います。

 

人間関係は相互なものですから、こちらがめんどくさいことを考えればその関係はめんどくさいものになりがちです。

あの人さっきの言葉どうとらえたのかな~さっきの言葉って皮肉なのかな~とか気にしてたら相手もそういうこと気になりだすみたいです。おとなしそうな見た目や頭の良さで選んで近づくと相手にもわかるみたいで、逆に避けられたりするようです。健常者って凄いですね。

 

健常者って凄い。なので余計な事考えずにどうでもいいことを話したらいいと思います。自分が興味のあることをいきなり振ったりするのはあまりよくないかも知れないです。相手が興味がない場合、延々と聞きたくない話を聞かされて嫌われます。

 

連想ゲームみたいな感じがいいんじゃないでしょうか。

よく話し上手は聞き上手って言いますけど質問攻めはダメです。

思考を浅くしましょう。

発達同士で話すと話がどんどんディープな方へ向かったり、互いのかみ合わない関心事についての情報のドッジボールや、異常に突拍子もない話題の転回が起こりますがあれを健常にやると煙たがられます。

思考を浅くするというのはひとつの法則で弱点を避けられるので便利なんです。

宗教、哲学、政治、経済、差別、環境、などなど・・

浅く話していればそういう所に触れずに済むので、クリティカルに捉えられづらいですし、また反撃されにくいので人間関係の立ち回り(笑)なんてものも殆ど気にしなくてもトラブルに巻き込まれずに済みます。

 上流階級の社交において、食事は栄養補給としての意味よりも会話のきっかけに過ぎませんが、健常愚者コミュニティにおけるそれは会話すら言語化不可能な交流のきっかけや肉体関係の布石に過ぎません。

 

以前の私は、まるっきり健常者を真似ようとして疲弊していたように思います。

それでどんどん症状が悪化しました。

なので抑えるポイントだけ抑えて、自分は変わらず自分のままで居ればいいと思います。

人なんてそうそう変えられるわけないですから。

健常者ですら洗脳じみたいことでないと変われません。いわんや発達をや。

 

つまり今回提唱しているのは、日常のシーンの要点を切り取ってケースバイケースの対応を実践していく方法なのです。

 

私は根本からやろうとしたので潰れました。構成部品が少ないほうが実践が容易だろうという発想は間違いでした。ある程度分けた方が冗長性もあります。

健常なりきりbotをやっている数年にたくさんのチャンスを無駄にしました。

 

別に身の程を知れと言いたい訳ではなく、ある人の人生はその人にしか生きられないので、意味もなく比べたり真似するのはナンセンスということです。

 

社会でやっていく方法を考えたら構成員を模倣するというのは単純な発想で間違ってはないんですが、場合により実現不可能だということでした。

 

だいぶ手抜きですが今日はこんな感じです。おわり