不眠症
眠れない。近頃過眠と不眠を行き来して宜しくない。
思う事。私が通院を勧めた人間二人が濫用に手を染めることに抵抗のない事。
処方を守らなければ薬は副作用や依存など様々な悪影響を現す。
はっきり言うが、処方薬や市販薬の濫用は、小学生が肝油ドロップを沢山舐めてしまうようなもので、ダサいし、無知を晒すようなものだから、しない方がいいし、しても公言するようなことではない。
目的を見失い、目の前の快楽にすがる姿の情けなさったら無い。
通院の目的は?抑鬱や諸症状の緩和や治癒。 抗不安薬を濫用したらどうなるでしょう?
すぐに効かなくなる。 依存症を引き起こす。 副作用ばかり出るのに依存しているから止めるに止められなくなる。 悪循環。
精神病の治療に投薬療法だけでは片手落ちで、健全な交友から理解を得たりする事が必要となるが、それには考え方を変えたりとか、服薬以外で自分を元気な方へ寄せていかなければならない。
誰も服薬を進めてすぐにメンヘラ風情を気取って濫用をする人間にまた耳を傾けようとは思わない。最低限のヘルスリテラシーが無い人間と話すのは大変に疲れるからだ。
私自身、抗うつ剤、抗不安薬、睡眠導入剤、抗てんかん薬を毎日服用しているが、酒と飲んだり、必要以上に飲んだりはしない。
例え眠れなくとも、今日のようにただそれを受け入れるなりするし、どうしても寝なければいけない時に、酒で眠剤をかっ食らって無理矢理に自分を昏睡させるなりやったとしても、それを大っぴらにするのは恥ずべきことだという自覚があるから、公言は控えている。
日常を耐える力は偉大で、退屈と憂鬱に耐える人々は健全で、健全な人間というのは憧れるべきものだ。やっていることがいくらお粗末でも、そういう身体を欲することこそ求める患者像と言えるのであって、闇雲に薬に頼りきる無力で情けない姿は、アル中のそれであるから、大変みっともないし、恥ずべき姿で、絶望への道なのだ。
だから投薬治療だけでは片手落ちなのだ。最低限の知識常識に欠けているからこそ知恵をつけて真面目に治療に取り組まなければいけない。
最も自分を愛せるのは自分だけなのだ。医者や、友人、同僚、家族なんてものをエクスキューズに使ったとて、自分の人生の責任は自分しか取ってくれない。
治療に真剣になるというのはまっすぐに自分を愛することだ。
その場その場の欲求で頓服でもない薬をモグモグやるのは、真剣に自分を愛していないからだ。
もっと頭を使うことだ。さもなくばいずれ誰も君の話を真剣には聞こうとしないだろう。
物事には守るべきルールがあって、治療には処方というルールがある。それを学ぶことは自分を学ぶことになる。
まったく寝不足なので苛々しながら書きなぐったが、私は恥ずべき事を公言するのはダサいと思っている。懺悔ならいいが嬉々として話す自分をどう思われるか考えて欲しい。
バイクで時速いくら出した、駄菓子屋で万引きした、一時停止無視した、マイスリーでラリった、そんな話は武勇伝でも何でもなく、ただ恥ずべきことの懺悔でしかない。
懺悔は、懺悔室で行うもので、公言するものではない。つまり、心にとどめることだ。
自分を大切にできるのは自分だけで、自分を大切にしない人間は、大抵、他人からは魅力的には映らない。浮気性、アル中、そんな人間に仲間入りしたいならどうぞ濫用することだ。
ただでさえ抑鬱を抱えながら依存症という大きな傷をわざわざ作ってしまうのは宜しくない。
私は合う薬を変えたくない。多くの患者がそう思っているのに、濫用者が増えれば処方は渋られるし、販売も止まる。デパスはそろそろ消えるのだそうだ。リタリンがそうであったように。
人は、健康で居られるのなら、どんなイデオロギーを持とうが、どんな生活を送ろうが勝手だろうと僕は思う。
しかしそれをはき違えた人々の手によって、酒も煙草も規制されていく。
薬も嗜好品もすべて使う人間が悪いのだ。濫用は社会悪というわけだ。
寝不足で、頭にもやが掛かって、今日の文章は支離滅裂のような気がする。
言いたいことはこうだ。
自分を大切にして欲しい。治療は真剣に取り組んでほしい。それが私と社会の要求だ。