6月心情メモ
朝は、友人が死んでいなくてよかった。
べつの友人が俺に会ったとき帰るなと言ったのが帰ってみればあいつに会うと疲れると言ったり口約束を破ったりしてつらいが乞食の手前文句も言えない。
イスラエルが許せない。無差別爆撃許せない。テロリストだって勿論許せない。
人を無差別に殺すことに大義名分を背負うな。理由なく殺せ。卑怯者ども。
どうせ殺される人間はどんな理由であれ納得など絶対にしないんだぞ。
抜けがけは許せない。俺だってデカいことをしたい。だけど大義名分なんてズルはしない。個人的な感情だけで殺したい。
だけど知人の自殺を何年も引きずっている俺だ。猫一匹すら殺せやしない。
葬式の死体を見ると悲しくて涙が止まらなくなる俺だ。人を死体にするなんてできっこない。
だからせいぜい脅すんだ。小さなバイクと髭面と、こころに隠したナイフに励まされ、びくびくしながら叫ぶのだ。
俺はみんなに買いかぶられ、小心者で、虚弱な肉体をもち、かならず焦り、いつもそわそわ怯えている。
そんな人に俺はなりたかったのか。それでもこれが今の自分で、避けられぬ関係だから愛する努力をしている。
はじめに書いた口約束というのは薬物の濫用についてで、私はそれを秘密にして欲しかったのだったが、ブログに書かれたということだ。
俺は、その処方薬をやってしまった日に、無意識下にアクセスされ、夢のようなひとつの気持ちを直視してしまった。
それ以来、どうも眠りが浅い。青空文庫をみれば抑圧から解放などされてはいけないんだと安吾が言う。私はまさしくその通りだと思った。
俺が抑圧から解放されてどうなる。欲を満たすための速度も腕力も持久力も無い。ただの非力な動物が生まれるだけだ。
人は一定の抑圧によって無意識にある剥きだしの動物を抑えてはじめて円滑な人間生活を送れるのだ。
その無意識にしまい込まれたパンドラの箱を開けてしまえば叶う事のない希望という名の苦しみが烈火となり襲い掛かる。
そうしたときはフッと火を消す。「そんなものはない」「幽霊の正体見たり 無」「ないものを恐れるなんてくだらない」
熾火がだんだんとくすぶっていく。しかしそれも消し炭のように簡単に再燃する。
こころがある限り夢を求めでもしなければ人はとてもまともではいられないのだ。
しかしそれも結ばれぬという苦しみが待っているのだから、なんとも空しいではないか。
だからただやっていくしかないのだ。わたしという生活を、わたしという命のために。
まったくその筈だったのだが、濫用によって妨げられたわけだ。俺はまた己と濫用を憎んだ。約束がどうであれやった私が悪いのだ。二度とやるものか。
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友人らとの交流の雑記
蒲田への行き、環八で死ぬほど渋滞し、暑く、東京を呪った。
友人と合流、「この世界の片隅に」をみて「悲しくてやりきれない」が流れたところからラストまで何度も泣いてしまった。
自前の矢を賭けてダーツで一敗、矢を渡してもう一勝負で一勝痛み分け。カラオケでは劇中軍歌などで騒ぎ、居酒屋のドライゼロで酔う。
友人と別れ、東野氏宅へ上がり込む。
二人して、友人の土産のシガリロとバーボンを煽る。
翌日、何が食いたいか聞かれ、サクフワが欲しいと言うと、ルノアールでトーストとボイルドエッグ、+50円。
アイスコーヒーを頼んだのにホットコーヒーでもおかわり扱い、100円。
あとはおなじみのカラオケでブルーハーツ、大声を出すとリミッターが外れて、精神には良い。
毎度会うたびカラオケばかりだが、私は同じことを繰り返すのは好きだから苦と思ったことはない。流石にヒトカラには滅多に行かなくなったが。
彼の部屋で自前の「おうた」を何曲か披露する。南極のように寒い歌詞、殆ど3コード進行のアカペラ、彼は称賛してくれ、素直に嬉しかった。
散歩をしながら、目につくもので駄洒落をかます。それも二つ三つではない、二桁は行くだろう、彼はそれで毎度辟易している様子だが自動思考は止まらない。聞き流すこともコミュニケーションのTipsだ。精々雑音に相槌をうつことに慣れてくれ。
彼はどうにも深刻で、ピョートル大帝の模造サーベルを帯刀して交番前で記念写真をせがむ割には小心者だ。
そんなビジュアルではなく、じっさいにボウイナイフでも胸に隠しておけば良いのにとふと思った。ボウイナイフはじつに彼の好みのナイフだと思う。決闘によく使われたものだ。ジャックナイフと違いシースナイフなので折り畳まれた刃を引き出す必要がないし、鍔も付いている。私も鑑賞用に欲しいと思っているくらいだ。
なんていう御託を相手の要求にかかわらずまくしたてるのが私の悪癖だがこれもどうにも止まらないものだから諦めて貰うか聞き流すことに専念することだ。聞き流すというのはスピードラーニング的な意味ではない。雑踏と区別はつくがどうもよくわからないことを言われたら、適当に相槌をうつテクニックだ。社会不適合者は、こういうTipsで武装して健常社会で戦うしかないのだ。私の手帳は鬱病で出ている。そういうことだ。
勿論我を通してやっていけるポテンシャルのある人々は別だ。平凡な気狂いの人生というのがこの世の最も悲惨な人生の一つと私は思う。
話は変わるが、東京は歩行者のための街だ。内燃機関を搭載するモビリティに厳しい街だと痛感する。
詳細は伏すが、私は原付走行不可の道に後戻りできないところで気付き、虹色の橋をヒヤヒヤしながら走ったのだ。まだ慣らしも終えていない新車で7000回転まで使って80km巡航したのだ。もう二度とナビ案内経路を確認せず出発することはないだろう。
つまり私は罪人だ。だが罪悪感などこれっぽっちも持っていない。裁かれるなら裁かれるだろう。それだけだ。
刑事罰が科される余地があることと罪悪の感を喫することは分けることができる。
私は何度見通しのよさを理由に一時停止を無視したか知れない。
生命は傷つけあわなければ生きていけない。
罪など人が勝手に作った概念に過ぎない。Tipsやライフハックに過ぎない。
どんなシステムも仕組みも同じことだ。どんな概念も同じことだ。
味噌と糞を区別する意味や理由は生きるためということだけだ。
罪悪感など感じたらその意味を探るべきだ。それが生まれる理由はあまり問題ではない。
何故なら理由はいくらでも見いだせるからだ。しかしマイナスな感情に意味などあるのだろうか?生きるため備わった機能に過ぎない。どうでもいい。誤作動を起こしたマシンは再起動でもすればいい。人間はそうもいかないのだから自分で機能やスイッチを増設するなりしてどうにかすることだ。
意味も理由も見出すものだ。本質的には虚無しかない。これは朗報で、悲報に聞こえるなら悲報を見出しているに過ぎないのだ。
ひとことで言うなら、深く考えないことだ。それでも沸いてくる症状に、医師の診断のもと、薬を処方量入れれば、わりと生きやすくなるものだ。そんなものだ。
帰り、環七、メッシュの鎧にウィンドブレーカーで、寒く、道は空いていた。
熱いシャワーを浴びて、寝て、起きて今日記を書いている。
さいごに、友人らに好評を頂いたため、非公開で書いている日記に記したなかの一曲をここに公表してみようと思う。好評だけに。
機材はないから、コードと、歌詞のみ。みんなの感想を待っている。
デルタブルース
コード
A E D
※
三角州 おれは三角州
きっと三角州 ずっと三角州
俺は三角州の男だった 生まれた時から三角州
大海原にケツ向けて とんがり頭を削られる
ここには肥沃な土や草木も なんでもあるのに
橋一本もかからない 鳥一匹も来やしない
あぁ こんな冷たい孤独な三角形
デルタブルース歌っても 外出るタイミング来やしねえ
※
ある日男が降り立った 落下傘を開いて
男は土地を耕し 雑木林を切り開く
俺はまんざらでもない気持ちで 付き合っていたが
ある日あいつはいかだを作って それっきりバイバイ
あぁ 俺に残ったのは荒れ果てた畑
踏み荒らされた土地 いくつもの切り株
このままじゃ 川の流れにすり減っていくだけ
孤独に蝕まれていくだけ 1000年もすりゃあ消えるだけ
100年もしないうちに 俺の心は沈没だ
だから俺は橋をかけるよ この歌で橋をかけるよ
適応について。
前回の記事の続きは、記憶が飛んだので書けません。
発達(発達障害者)が適応する失敗例
・過剰に適応してストレスがかかり、自己モニタリングできないのでそれに気づかずある日トラブルが起こる。
1、ベッドから動けなくなる
2、適応が不完全になり人を傷つけたり場にそぐわない言動を起こす
こうならないためには普段からストレスを発散することが大切ですが、よく言われる運動や芸術鑑賞やレクリエーションなど気晴らし以外でも普段のふるまいでストレスを貯めづらくすることもできるのではないかと最近思い、実践しています。
過剰に適応すると健常な方でも環境によっては病気になります。
思い返せば、私は普段健常者のロールプレイをやっていたり、逆に寡黙になり交流を絶ったりと、極端な適応をしていたように思います。
完全に適応できている筈もありませんから、効率が悪いんですよね。
なので本来の思考回路上に健常エミュレータを動かす従来の方法から、本来の思考の一部に適宜健常フィルターをかけるようなイメージに変わってきています。
自分らしく、というと陳腐ですが、無理なくやっていくにはこちらのほうが良いです。
何故なら、頭いっぱいに健常者の思考をエミュレートすると、一息入れるべきときに自分に戻れなくなるのです。エミュが常駐して落とせなくなります。これは想像以上につらくて、元の自分と仮想の自分が混じると普段話すことも矛盾が現れますし、一人で街を歩くときにも周りに知人が居るようにふるまったり、そんな心地で居るようなものになりますから、どんどん疲弊していきます。もうぐちゃぐちゃです。
そこで社会的場面の都度健常のコードに沿って言動をやる方法に変えてきています。これは別に今日から変えよう!とやったんじゃなく、ふと顧みるとそうなってきているということです。
一人のときはいつも通り、家族連れの多い公園の芝生だろうが、日当たりが良かったら寝てたり、食事のタイミングや量も他人に合わせません。たとえ行政などからの要請にも体調によっては対応を先送りしますし、とにかく自分にとってのストレスを避けながら最低限の健康とリズムの保持に努めて療養しています。
人と会話したり、会ったりするときにも、数年前より余計なことを気にしないようになってきました。まず見た目は清潔感がなくても実際に清潔であればよしとします。つまりシャワーを浴びて洗濯した着衣を身に着ける程度です。行動も健常コードを外さないレベルに制限されます。そして会話、これは人間関係というものの底知れなさ、つかみどころのなさが最大の壁なので、そもそもそういうことを気にしない方がいいと思います。
人間関係は相互なものですから、こちらがめんどくさいことを考えればその関係はめんどくさいものになりがちです。
あの人さっきの言葉どうとらえたのかな~さっきの言葉って皮肉なのかな~とか気にしてたら相手もそういうこと気になりだすみたいです。おとなしそうな見た目や頭の良さで選んで近づくと相手にもわかるみたいで、逆に避けられたりするようです。健常者って凄いですね。
健常者って凄い。なので余計な事考えずにどうでもいいことを話したらいいと思います。自分が興味のあることをいきなり振ったりするのはあまりよくないかも知れないです。相手が興味がない場合、延々と聞きたくない話を聞かされて嫌われます。
連想ゲームみたいな感じがいいんじゃないでしょうか。
よく話し上手は聞き上手って言いますけど質問攻めはダメです。
思考を浅くしましょう。
発達同士で話すと話がどんどんディープな方へ向かったり、互いのかみ合わない関心事についての情報のドッジボールや、異常に突拍子もない話題の転回が起こりますがあれを健常にやると煙たがられます。
思考を浅くするというのはひとつの法則で弱点を避けられるので便利なんです。
宗教、哲学、政治、経済、差別、環境、などなど・・
浅く話していればそういう所に触れずに済むので、クリティカルに捉えられづらいですし、また反撃されにくいので人間関係の立ち回り(笑)なんてものも殆ど気にしなくてもトラブルに巻き込まれずに済みます。
上流階級の社交において、食事は栄養補給としての意味よりも会話のきっかけに過ぎませんが、健常愚者コミュニティにおけるそれは会話すら言語化不可能な交流のきっかけや肉体関係の布石に過ぎません。
以前の私は、まるっきり健常者を真似ようとして疲弊していたように思います。
それでどんどん症状が悪化しました。
なので抑えるポイントだけ抑えて、自分は変わらず自分のままで居ればいいと思います。
人なんてそうそう変えられるわけないですから。
健常者ですら洗脳じみたいことでないと変われません。いわんや発達をや。
つまり今回提唱しているのは、日常のシーンの要点を切り取ってケースバイケースの対応を実践していく方法なのです。
私は根本からやろうとしたので潰れました。構成部品が少ないほうが実践が容易だろうという発想は間違いでした。ある程度分けた方が冗長性もあります。
健常なりきりbotをやっている数年にたくさんのチャンスを無駄にしました。
別に身の程を知れと言いたい訳ではなく、ある人の人生はその人にしか生きられないので、意味もなく比べたり真似するのはナンセンスということです。
社会でやっていく方法を考えたら構成員を模倣するというのは単純な発想で間違ってはないんですが、場合により実現不可能だということでした。
だいぶ手抜きですが今日はこんな感じです。おわり
人を直視せよ~Youtuberから始まる人の虚飾性・多面性と実生活との折り合いについて、及びアイドルとの関連性とそのファンにおける信仰とニヒリズム~その1
おい、瀬戸康史。
ヒカキンといえば知らない小学生はひまわり学級にも居ないと言われるYoutuberだ。
Youtuberにあまりいい印象を持っていない人が彼の動画をただ見ると、イライラする人が多いと思う。それは紹介する商品について無知だったり、変顔したり、おかしな編集をしたり、ゲームチャンネルではゲームがお世辞にもうまい方とは言えなかったりする所だったり、様々だ。
また、極東の先住民に特有の、遊んでるだけで金を貰うなんてけしからん、という感情もあるだろう。
そして同じように瀬戸康史の動画を見ても、ちょっと違う性格ではあるが似たような感覚はやはり多くの人が持つだろう。
私もはじめは内心なんでこんなものが人気なんだ、という好奇心半分馬鹿にするつもり半分でYoutuber(それもほんの一部)の動画をここ半年ほどちょくちょく見ていた。
そうして見ているうちに独特の編集などにも慣れ、ヒカキンセイキン兄弟からシバター、その他諸々をつまみ食いしていたのだが、どうしても一人好きになれないYoutuberが居た。それが瀬戸康史である。
何故彼を好きになれないのか?私は友人に相談した。今回のブログはその内容をまとめたものです。
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